
GALLERY
KASUMI
KASUMIはいつも絵を描いている。躍動感あふれる人物や生き物、愛らしい建物や乗り物を真っ白い紙の上に生み出してゆく。毎日、毎日。芸術家とはまさにこういう人のことを言うのだろう。
2015年作品



KASUMIワールド
気がついたら、絵を描いていた。「うまい」とか「へた」とか、まわりはそれについてあれこれ言うわけだけれど、私にとって、それはそういうこととは別に存在していた。
小学校にあがって、ヒトとの「コミュニケーション」がある意味本格的に始まったわけだけれど、人見知りでヒトと話す習慣が(今も)ない私にとって、「絵」はすごいコミュニケーションツールだった。何人もの級友が「自由帳」を持って私の机の前に現れ、「何か描いて」とせがんだのをおぼえている。
その後、私の生活は勉強やら部活やら仕事やらに妨害されて、自分の中の何かを表現するよりも、ヒトの規則をおぼえたり、それにうまくしたがったり、それを効率よく使うことに力を注ぐようになって、私はすっかり世界とのそうした関わり方を忘れてしまっていた。
24歳で勤めていた会社を辞めて、膨大な時間が手に入った私は、気がついたらまた絵を描き始めていた。それについて、やはりまわりは「うまい」とか「へた」とか、「そんなんじゃ生活していけない」とか「もっとこうしたほうがいい」とか、あれこれ言うわけだけれど、私にとってそれは、やはりそういうこととは全く別のあり方をしていた。
それはつまり、広い意味でのアート=表現活動をしない人生という選択は私にはありえないということで、やりたいとかやりたくないとか、やるべきとかやるべきではないとか、そういうものとは別の次元でそうしているという、そういうたぐいのものなのだ。
KASUMIさんとはじめて出会ったのは2015年、6年前のちょうど今頃のことのようだ。私はヒトの顔も名前もおぼえられないが、見た作品は忘れない。それまでアート・インクルージョンにはいなかったようなポップな色調とテイストのイラストが、それこそ湯水のように湧き出すのを目撃した。そしてそれは今もつづいている。
私は彼女とほとんど言葉を交わしたこともないし、ほんのたまに渡されるイラスト以外に彼女から何かを伝えられることもない。だから「コミュ力」がどうこうというような観点から言うなら、私たちの間に「コミュニケーション」は成立していない。
しかし私がこの文の最初からつづってきたような世界と自分との関係について言うならば、それは成立するとかしないとか、そんなものを超えてすでに存在している。私もKASUMIさんも、アート=表現活動がすでにして選択しうるようなものではなく、それがない人生などありえないという世界に住んでおり、そうであればもうそれだけで私たちはわかちがたくつながっている。
私の幻想なのかもしれないが。
門脇篤(現代アーティスト、本展キュレーター)
2016〜2017年作品

2018年作品

2019年以後の作品
