
STORY
「宇宙人でした」
KASUMIさんについて、お母さんに聞きました。

小さいころは、いろいろなキャラクターを描かされました。ずっとです。ごはんのとき以外は。
リトミックを3歳から習っていて、初ステージは幼稚園年長の6歳のとき。「とっておきの音楽祭」など、毎年ステージに立ってきたので、ステージ度胸はあると思います。

小学校に入ってからは、スキあらば校庭へ脱走する子でした。先生が目を離すと校庭でブランコをこいでるような。
学校から帰って来ると、広告の裏やA4のお絵かき帳に、すごい勢いで描いていましたね。セリフをつくったり、ストーリーつくったり、描きながら自分なりに楽しい世界を作っているようでした。
できあがるものはそれはもう膨大な量で、クスッと笑える、イライラしているときに癒されるようなものだけ、とっています。
ひらがなや漢字も、言葉としてではなく、絵の一部、かたちとして描いていたと思います。

ふりかえるといないということが多かったので、目立つ色を着せていました。絵に原色が多いのはそのせいかもしれません。小学校のときはオレンジがテーマカラーでした。中高生になるとさすがにそれではなんなので、カーキ色にしようかと。

大人しい子が好みで、頭をなでようとしたりするのですが、力かげんができず、相手の子や親が驚いてしまうので、外に連れ出すのは元気がないとできなかったりしましたね。
祖母が和裁の先生で、くみひもなんかをやっていて、そのときに見た色づかいが、今の絵に影響を与えているのかもしれません。
ひいお爺さんが剣道8段だったこともあってか、剣道部では、先生から「太刀筋がいい」と言われていました。

震災のときには、紙とペンさえあれば自分で不安を解消できていました。描くことで、心の安定を保っていたのだと思います。
家の近くに自衛隊の基地があって、ヘリコプターがよく低空飛行していました。
妹はそのためか、描く絵が真っ赤とか、紫になったりしていましたが、この子はテイストも変わらず、描くことで自分の気持ちを落ち着かせていました。
震災当時、私は家を留守にしていて、この子がお留守番をしていたのですが、この子部屋は妙にすっきりしていて、その後、4月7日にまた大きな余震があったときにその意味がわかりました。ゆれの中で、タンスの引き出しを必死におさえていたんです。震災のときもきっとそうしておさえていたのだろうと思います。家族に怒られると思ったのかもしれません。

高校では、最初、アート・インクルージョンとは別のところに実習に行っていて、内定もしていたんですが、どうしてもここに来たいという気持ちが強かったようで、進路を決める際、はっきりと「アート・インクルージョンに行きたいです」と言葉に出して、先生もびっくりしていました。
とはいえ、言葉でなく表情で訴えようとしたり、困っていても伝えるのが難しくてあきらめてしまったり。
妹は「お姉ちゃんは好きなことができていいな」と言ったりもしますが、自分の気持ちを表せないわけですから、希望がかなっているのかは本当のところはわかりません。
